なぜ『君の名は。』は大ヒットしなければならなかったのか?

今年の下半期、うっすらと頭の片隅にあった問いのひとつに「映画『君の名は。』がなぜあれほどヒットしたのか?」がありました。以前Facebookにも書きましたが、新海誠作品はデビュー作の『ほしのこえ』から観ていて、『君の名は。』も公開直後に観に行きました。

その時、確かに良い映画だとは感じたものの、新海誠のベストではないし、何よりいまの規模でヒットするとはまったく考えていませんでしたし、大ヒットの兆しが見え始めてきた9月以降も「ポストジブリとして、まあこのぐらいはあるかもしれない」と静観していました。

ただ、そのジブリ作品の興行収入を超え始めたあたりから「これは自分が何か重要な点を見逃しているのかもしれない」と思うようになりました。そして最近、その見落としていたポイントとヒットの理由が見えてきました。

 

『君の名は。』の真のテーマとは?

この映画の最大の魅力は主人公2人が織りなすラブストーリーです。しかも単なるラブストーリーではなく、まるで魂と魂の出会いのように描かれ、かつ、新海流の美しい背景が掛け合わさったことで多くの人を惹きつけた。これが大方の『君の名は。』評でしょう。僕もそう考えていました。
ただ、これは他の新海誠の作品でも言えることなのです。

では、これまでの新海作品と『君の名は。』の最大の違いは何か?これは結末部分です。
それもあって「この結末を迎えたこと、およびこの結末につながるストーリーだったからこそ、今までにはないヒットに至ったのではないか?」と公開当初は考えましたが、この要素だけでは多少のヒットは考えられても、ジブリを超える規模の大ヒットはやはり語りきれません。

では、なぜここまでの大ヒットの理由はどこにあるのか?それは世間的には言及されていない部分にあるのではないか?そんなことを考えるようになりました。

『君の名は。」がもつ真のテーマ、それは「時間と空間の離れた2人が結ばれるラブストーリー」(わたしとあなたが出会う)ではなく「小さな自分と大きな自己の出会いと統合」(わたしとわたしが出会う)だと考えます。このテーマは映画の中で明確に語られていませんし、おそらく新海監督もこのテーマを意識した映画作りはしていないと思います。
誰もが明確に意図したわけではないけれども、結果として描かれてしまった、そしてその要素こそがが多くの人を惹きつけた。
それが真相なのではないか?というのが僕の見立てです。

 

「小さな自分と大きな自己の出会いと統合」(わたしとわたしが出会う)とは?

少し解説してみます。

ここでの小さな自分とは、言わば日常を生きる自分です。日常を生きることが精一杯で、毎日楽しく過ごせればそれでOK。少しズルいところがあったり、弱いところがあったりする、そんな自分です。映画では入れ替わっていないときの自分です。

そして、大きな自己とは、日頃意識はしていないけれど、魂そのものである自分、本当は知っているはずなのにいないことにしている「ほんとうの自分」のようなものです。大きな自己の定義はあまり厳密にしてもあまり意味はないので、このぐらいにしておきます。
映画では、入れ替わった先の自分に象徴されていると考えます。

なぜ僕がこの考えに至ったのか?その理由は三つあります。
一つは「「朝、目が覚めるとなぜか泣いている」というセリフ、そしてもう一つは「記憶が失われていく」のはなぜか、最後に「なぜあの結末にならなければなかったのか?」です。
これらはいずれも劇中では明示されていません。

 

真のテーマから読み解く『君の名は。』

こちらも簡単にですがまとめてみます。

まず「泣いていた」の理由についてです。
普通に考えれば 「恋している人と離れたから」です。この理由は分からなくもないですし、その要素も確かにあるでしょうが、お互いが恋を意識する前でも涙を流していますし、それだけの理由では弱い気がします。

僕の解釈は「小さな自分が大きな自己に出会ったことの歓びと、別離の悲しみ」による涙です。
どこかで知っていたはずの自分に確かに出会えたことを実感すると共に離れてしまう悲しみが入り混じって自然と涙が流れる、そんな心境のイメージです。

この解釈は僕の実体験に拠るものです。人はどこか真の自分に出会うと、理由もなく涙が流れたりしますし、自分自身そんな体験があります。
「朝目覚めると、なぜか泣いていた」の涙は、別離の涙だけではなく、そんな意味合いが込められてもいる涙ではないか?と考えます。

続いて「記憶が失われていく理由」です。
これも身体が離れたからそれに応じて自然と記憶が失われていくといえば、それっぽく思えますが、どうもストーリーを展開させるためのツールにしかならない気がして、どうも後付け感が否めませんでした。必然性に欠ける感じです。

こちらについては、僕は「小さな自分は大きな自己であることを忘れているから」説を取ります。
小さな自分と大きな自己、この2つの自分は常に存在しているのです。
ただ、小さな自分は日常を生きる中で、自分が大きな自己であることを忘れてしまいます。
一瞬、大きな自己につながった時は覚えているけれど、その繋がりが途絶えてしまうと記憶も失ってしまう、という解釈です。

そして、結末についてです。
こちらも確かに大衆受けを狙ったという要素もあるでしょう。ただ、大衆受けという理由だけで新海監督はあの結末にはしないと思います。
僕の考えは「小さな自分と大きな自己の出会いと統合」を描いたからこそあの結末にならなければなかった説です。

これまでの新海誠作品は、「絶対的に別れている二人の距離と、その距離を引き受けて生きること」を描いてきました。だからこそ、今までのラストはああならざるを得なかったのです。
一方、今回の『君の名は。』が描いているテーマが「小さな自分と大きな自己の出会いと統合」だとすると、今までの路線を引き継ぐとメッセージがブレてしまいます。
つまり、この結末の方が大衆受けするからそうしたのではなく、映画が持つテーマから必然的に導き出された結論だった、僕はそう考えます。

 

『君の名は。』は大ヒットアニメ映画に共通する要素を持っている

最後に 「小さな自分と大きな自己の出会いと統合」という構造は日本で大ヒットするアニメ映画に共通する構造でもあります。
「千と千尋の神隠し」「アナと雪の女王」は「君の名は。」に匹敵する大ヒット作品であり、いずれも「小さな自分と大きな自己の出会いと統合」というテーマを描いています。

そして、今回ほどの歴史的大ヒットは老若男女問わず強く支持されないと不可能です。
では、なぜここまでの広さと深さを持つ支持を受けたのか?
その最大の理由は「小さな自分と大きな自己の出会いと統合」(わたしとわたしの出会い)というテーマが持つ普遍性にあるのではないでしょうか。
人はどこかで、このテーマが自分にとって大切であることを知っている。
だからこそ、この構造を秘めた『 君の名は。』がここまでの大ヒットを遂げた。

もちろん、これが唯一の正解ではないですし、全員が全員このテーマに惹きつけられるわけではないとは思いますが、僕なりに考えた現時点での結論です。

 

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