あっという間に8月に入りました。多少間が空いてしまいましたが、7月に参加した「ホリスティック・サイエンス・セミナー」参加レポート第5弾です。
後から振り返ると、この日が最も印象深い日になりました。
起こるべくして起こった議論「全体性と二元論」
4日目の午前中は、3日目の復習と物理学を通して「部分と全体」に対する探究を行いました。講義自体は難しさを持ちながらも順調に進行していたのですが、ある瞬間に議論が巻き起こることとなりました。
それは端的に記すと『「全体性が良いもの」という前提で議論が進んでいるが、部分にも良さがあるのではないか?」というものでした。
実はこのテーマは2日目、3日目でも、度々提起されていましたが、ちょっとした質問や指摘に留まり、大きな議論には発展していませんでした。
そして3回目の今回、とうとう議論テーマとして、場に現れることとなったのです。
そもそも、このテーマは全体性を扱うとほぼ毎回出現するものです。理由は明確で、「全体性が良い」とすることは、実は全体性を志向しているようで二元論の世界観そのものだからです。これが全体性を扱う上での困難さです。かつ、それを意識していたとしても、言葉を使ったやり取りでは、なんらか全体性を定義づけることが必要になりますから、どうしても分断を生んでしまいます。その分断もまた、二元論を呼び込んでしまうため、言葉で全体性を扱うことは構造上の限界を抱えていると言わざるを得ません。
このあたりに無自覚なまま全体性について議論をしてしまうと、この罠に引っ掛かることになります。
で、この議論に入り込む際には「全体性が良い派」にも「部分にも良さがある派」にも、たいてい「手放せない執着」があります。それは「全体性or部分が失われてしまうとどうなってしまうのか?」を内省していくと見つかります。
「全体性が良いのか、部分が良いのか」をそのままテーマにするのではなく、その下に隠れている「お互いの手放せない執着」を扱っていくことこそが、議論を前に進めていくカギです。
ここを手放せると「全体でも部分でもどちらも良い」という中庸(=全体性)が立ち現れ、何かしら新たなビジョンが立ち現れ、前進することができます。
(今回は時間の関係もあり、そこまでは至りませんでしたが)
こう書くと簡単そうですが、ここでの「手放せない執着」は本当に手放せない!(と感じさせる)ものであることが多いので、覚悟が問われ、相当パワーを使います。
この構造はかなりの割合で出現するので、全体性を扱うための関門といっても良いのかもしれません。
で、ここまでが4日目の午前中でした。今回は特に概念的な内容であり、ここまで読んでくださった皆さまありがとうございました。
午後はいよいよクライマックスを迎えます。僕自身めったに体験しない場がとうとう立ち現れることになったのです。