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「ひとりで居たい」気持ちと「みんなで居たい」気持ちが起こる時

GLady / Pixabay

チャクラセラピーをきっかけに出会った自分との対話、引き続き行っています。

最近は「ひとりで居たい」気持ちと「みんなで居たい」気持ちがせめぎ合っていたので、それをネタに内省しています、

 

「ひとりで居たい」し「みんなで居たい」

僕は内向タイプということもあり、「基本的にひとりで居たい」と思っています。いちばん気分が落ち着くするのは、休日そこそこ空いているカフェで好きな本を読みながらあれこれ考えている時です。

でも、どうやらそうではない自分、そのひとりで居ることを寂しがっているもうひとりの自分がよく現れるようになりました。

今まではその自分が発する声をあまり気に留めていなかったのですが、近頃は意識的に耳を傾けるようにしています。そうすると、どことなくある寂しさが溶けていくような感覚になります。もちろん、「みんなで居たいな」と思ってそうあれる環境の時は、できるだけその声に従うようにしています。

特にここ最近は「ひとりで居たい」とも感じるし「みんなで居たい」とも感じる、いったい自分の本心はどこにあるのだろう?というふわふわした心地になることが増えてきています。

この感覚、ありそうで無かったので、その感覚に潜っていったところ、どうやら源は同じところにありそうだということに気づきました。どちらもそれなりの言い分があって、合理的であるところが面白いです。

 

ひとりで居ると得られるもの、みんなで居ると得られるもの

どうやら僕が得たいのは「そこに居ていい」という許可やそこから得られる安心感のようです。ひとりで居ると、自分のスペースや居場所ができるので、「そこに居る許可」が得られます。

一方、みんなで居る時はどうでしょう?実はこれも「周りの人からそこにいることを認められる」ことでそこに居る許可を得ているらしいのです。

まとめると、基本は内向型なのでひとりで居ることによる安心感があればOKです。ただ、それだと満足しない時があるらしく、その時に「みんなから許可をもらいたく」なります。でも、みんなで居ると疲れるので、またひとりに戻りたくなる。そして…という無限ループにハマっているわけです。

さらに付随した所では、安全を保持して人と繋がるために、僕は自分の武器としている知識を利用しています。つまり、あたかも人のために見せかけて、結局は自分の安全を確保した上で人と繋がるための手段として、知識をバラまいているのです。まあこのあり方だと限界がありますよね…。

 

ちゃんと振り返ればよくわかりますが、ひとりで居ようと、みんなで居ようと別に許可など必要ありません。ただ自分が安全を求めている、裏返せば存在不安を感じているということです。

こう思い返していくと、僕が反応する多くのパターンが「存在不安を脅かされた時」、正確には外からの刺激をもとに、存在不安を自ら掻き立てた時」あることに自覚的になりました。

で、この存在不安というテーマ、不安だけを扱っていてもあまり建設的で無い気がしていて、最近は「そもそも存在とは本質的に何か?」という問いと向き合っています。「存在」を僕は日常的に体験していないと思っています。

「存在」というテーマ、結構自分の芯を捉えている感覚があって、これを抜けるとブレイクスルーできる気もしています。

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