今日は先ほどまで胡桃堂喫茶店で開かれたミヒャエル・エンデの『モモ』をテーマとした読書会に参加してきました。そこで感じたこと、考えたことを、少しばかりではありますがこの場でもお伝えできればと思います。
聴くことの力強さ
読書会は、胡桃堂喫茶店影山さんからのお話をベースに対話を深めていく流れでした。最初に影山さんが取り上げたテーマは「聴くことの力強さ」でした。
モモと関わっていく人が「ひらかれていく」際に、モモは「質問するわけでもなく、答えるわけでもなくただじっと、注意深く。」聴いているのです。
そうすると、
「するとあいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すうっとうかびあがってくるのです」
これはただ聴くだけでは起こらない現象です。影山さんも「シンパシー」と「エンパシー」の違いを用いて説明されていました。
影山さんの話を元に僕なりの理解をまとめると、「シンパシー」は「私とあなたの境界線がある」前提で話を聴くこと。「エンパシー」は「私とあなたの境界がない」前提で話を聴くこと。
モモは「エンパシー」をベースにした聴き方を通じて、相手が自ずと何かに気づいたり、変化するきっかけを創っていたのです。
「シンパシー」をベースにした聴き方はスキルやテクニックで可能です。しかし「エンパシー」をベースにした聴き方はスキルやテクニックだけでは不可能です。この点については、また後ほど触れたいと思います。
モモの時間を生きるには?
モモと言えば、「時間」をテーマにした物語であることが有名です。
影山さんも時間についてお話されていて、特に印象深かったのが、
「モモはあなたはあなたのままでいい、という所から、自分の時間を相手に分け与えるように時間を使っていたのでは?」
というお話でした。
僕たちは、時間をついついモノのように扱ってしまいます。時間は形こそないですが「失われていく有限なもの」という感覚を抱きがちではないでしょうか?ビジネスの場面でも、時間はある意味お金以上に貴重なリソースとして扱われることがあります。だから「時間を浪費する・奪う・奪われる」ことにとてもセンシティブです。
しかし、よくよく考えてみれば当たり前ですが、時間はモノではありません。
では、なぜモノではない時間を、僕たちはモノのように扱ってしまうのか。
これは読書会でも直接言及されていたわけではありませんが、「死への恐怖」が時間をモノ化させてしまうのではないでしょうか。死=恐怖だとすると、生=残された時間、をいかに活かすか?効率化させるか?というような、限られたものなのだから、できる限り効率的に使ってやろうというなんとなく「セコい」考えや感覚が湧き上がってきます。
そして先ほどの「聴き方」と「時間感覚」は実は密接な繋がりがあります。ちょうどこの繋がりに気づける体験があったのでご紹介します。
聴くと、聴かれた体験の違い
ちょうど今日、部下と面談をしていて、面談の進め方についてフィードバックをもらう機会がありました。そこで「話を聞いてくれたことはうれしかった。ただ、自分の意見と僕の意見が切り分けれていたようにも感じた」ということを言われました。
影山さんのお話を聴くまでにも、このことについて、色々と考えていたことはあったのですが、時間の話を聞いて「ああ、自分は時間を分け与えるという意識では聴いていなかったな」と思いました。僕は確かに話を聞いていました。しかし、それは部下にとって「聴かれた」という体験にはならなかったのです。
話を聞くことはスキルやテクニックを駆使すれば十分にできます。一方で「聴かれた体験」はスキルやテクニックだけではダメで、相手に意識を向けて聴いていたか=自分の時間を分け与える意識、で聴いていたかが問われます。
たとえ使った時間自体は同じでも(いや、むしろ時間の長さは関係ないかもしれません)この意識と共に聴くか聴かないかこそが、「聴かれた体験」になる分かれ目になるのです。
時間を分かち合う生き方をする
ここまで「自分の時間を分け与える」ことについて触れてきました。そして、僕はさらにこの先の時間の使い方があると考えています。それは「自分の時間と相手の時間という区別を含んで超える」というものです。
「自分の時間を分け与える」には「私と相手は別の存在だ」との前提が隠されています。しかし、「自分の時間と相手の時間という区別を含んで超える」には「私と相手は別の存在でありながら、一つの存在である」という前提になります。
影山さんのお話を元に自分なりに言葉にしてみると、「わたしの時間を生きることは、あなたの時間を生きること。あなたの時間を生きることは、わたしの時間を生きること」でしょうか。
この感覚で人生を過ごしていくことがモモのような生き方であり、モモが創りたいと願っていた世界なのではと思います。
今日の読書会に参加するまで、「聴く」と「時間」がこんなにも繋がりがあることには気づけませんでした。そして、「時間観」は「人生観」とも密接に関わっています。だからこそ、モモの作者であるエンデは、より望ましい生き方を創るための経済のあり方や、社会のあり方にも深い関心を寄せたのではないでしょうか。