社会や周囲からの息苦しさや窮屈さを創り出している源とは?

年末の歌番組を見る中で欅坂46の『サイレントマジョリティー』という曲が流れていて、その時に始めてこの曲をちゃんと聴きました。この曲の歌詞は自分を抑えて周囲に合わせる社会適合的な段階から、自分の意志をベースに人生を創っていく自己創造的な段階へのシフトがテーマになっています。

歌詞の中では、自己創造段階に向かう際に妨げになる要素として「大人たちの支配」が挙げられています。確かに「わかっていない大人たち」を敵視してその支配からの脱却を図る、という世界観は、特に若い時の自分を思い返すとリアリティがあるなとは感じます。

しかし、自分も社会に出て、かつ体制側と言いますか、いわゆる「組織の都合」も理解できるようになってくると、「大人たち」をただ敵視するのも、言葉を選ばず表現すれば、どこか幼稚っぽい感覚を抱く方もいるのではないでしょうか?

僕もその一人です。ただ、なんとなく社会や周囲の世界に縛られているような感覚や、窮屈な感覚が払拭されたかというと、そうではなく、どことなく残っているようには感じている。では、この息苦しさや窮屈感はいったい何なのでしょうか?

 

サイレントマジョリティーはどこにいるのか?

僕はその息苦しさや窮屈感を作り出しているのは、他ならぬ自分自身だと考えています。一見、「そんなことをすると周囲から批判される」「好き勝手にやったら嫌われるに違いない」のような、まるで外からの視線や声のように感じられるものは、よくよく振り返っていくと、実は自分自身が発しているだけだったりします。(ちなみに「サイレントマジョリティー」のMVに登場する街頭広告の一つに「眼」が描かれているのは極めて象徴的だと思いました。知ってか知らずかはわかりませんが)

「それって誰がいつ言ったの?」という問いかけに答えられない場合は、ほぼそうなのではないでしょうか?(もちろん実際に言われていることもあると思いますが)

これらの「内なるサイレントマジョリティー」に自覚的であればまだ良いのですが、無自覚な場合、まさにサイレントマジョリティー化してしまった場合は、その視線や声に負けて、結局、社会適合的な自分に留まってしまいます。

 

内なるサイレントマジョリティーはなぜ存在するのか?

ではその「内なるサイレントマジョリティー」はいったい何のためにいるのでしょう?
これもいろいろな考えはあると思いますが、一つには「自分を守る」ことが挙げられるのではないでしょうか。

自分を抑えると、周囲からの反応も無くなるので、痛みを感じたり傷ついたりすることは無くなります。特に、過去に痛みを覚えた体験や傷ついたと感じた体験に近い状況であればあるんど、NOをいう自分が内面化されてしまい、内なる声に無自覚になります。そうなると自分が発している意識から、社会がそう言っている、そう言っているに違いないという信じ込みに発展していってしまいます。

「内なるサイレントマジョリティー」からの解放は、この信じ込みを一つ一つほどいていく作業です。

それはどんな体験だったのか?どんな痛みを感じたのか?そしてそれは何から自分を守るために必要だったのか?、こんなことを明らかにしていくと共に、ずっと自分を守ってくれていたその声に感謝をし、「いま、本当にしたい選択は何なのか?」を問いかけ、恐れを抱きながら行動してみて、またそこから感じたことを振り返る、この繰り返しです。

内なるサイレントマジョリティーに耳を傾け、受容していく、このプロセス(「Yesでいいのか?サイレントマジョリティー、No!と言いなよ!サイレントマジョリティー」)で自分の意志が育まれ、結果として周囲にインパクトを与える力強いビジョンが創られていきます。

 

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